2013年7月21日日曜日

アントニオ・ロペス追記


 日(2013年7月21日)のNHKの日曜美術館はガルシアの特集だった。ところで、ガルシアではなくてロペスと呼ばれていた。展覧会が巡回して長崎の美術館へ行ってから取り上げるのは、Bunkamuraが私立だからなのだろうか。
 ロペス本人も長崎へ初来日して番組にも出ていた。不謹慎ながら、彼の年齢を考えると貴重な回ではなかろうか。番組は絵画作品を中心に、それらの多くが完成までに非常に長い時間(時に20年以上)が掛けられていることを強調していた。それは興味深い事実ではあるが、同時に作品の質として最重要な事柄でもない。

 ペスは、作品の現場に自分が立ち、その場の光線を肉眼で見て感じることを重要視していた。だから、夏場の朝の光線が重要ならばその季節の数十分だけが制作時間となり、結果、完成までに長い時間を要する。また、写真”のみ”を使用してアトリエで制作することには異を唱えてもいた。しかし、彼の言い方は「写真だけで」制作することへの異議であって、制作過程において写真を使用すること自体を否定する言い方ではなかった。
 これはロペスの風景画や写実的肖像画を見て思ったことだが、彼はキャンバスに下絵を描く段階において、写真を使用しているのではないだろうか。’72年に鉛筆で描かれた『マリアの肖像』などは、モノクロ写真かとだれもが始め思うはずだ。あの対象の写し取り方には、人間の視覚の主観というものを感じない。写真機によって予め平面化されたものを描き写したようにしか見えない。マドリードを描いた巨大な風景画にも同様の印象を受ける。あの広角の視点は人間の生の視覚によるものとは思えない。それにテレビでも紹介されていた消防署の屋上から描かれた巨大な風景画には、右手前に紅い金属ポールが”レンズの収差で”湾曲して描かれている。
 ロペスは、冷徹な正確さを作品に求めている。そして、「光線と色彩が重要」とも言っていた。思うに彼は、構図と下絵に関しては写真を元にして描き、そこに乗せていく色彩は、現地で見て描いていくというプロセスを取っているのではないだろうか。

 後、どのような制作をしていくのかという問に対して、今後は人体彫刻を制作していくと明言していた。女性、男性、子供の像を造っていきたいと。
 今までの制作人生を振り返って、若い頃は主観的な表現こそが重要と周りの作家も自分も信じていたと”反省するかのように”語っていたのが印象的だ。そこにある(存在)ものを、それが反射し放つ光線を、ただ感じ取りその瞬間を定着させようとする冷静な態度。私がどう感じたのかを表すのではなく、私を感じさせた対象をこそ再現しようとする表現。それが彼の言う写実表現だ。そこにはだから、昨今の主観主張作品に色濃く漂う「押しつけがましい感情」がない。鑑賞者もまた、彼の作品の前では冷静さを取り戻す。

 然物がそこに存在する。人もまたしかり。太陽光も無感情に降り注ぎ、それら対象物に反射して色彩を作り出す。物語はそれを見る私たちの内面に生まれるのだ。ロペスの作品は、自然物という対象と感情が生まれる私たちの主観との狭間の世界を具現化し、提示している。
 ントニオ・ロペス展を観て